【NBA】ジャック・トワイマンとモーリス・ストークス。/サクラメント・キングス、レイカーズ、ウォリアーズ、シクサーズ

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【NBA】ジャック・トワイマンとモーリス・ストークス

去る2022年4月26日、チームメイト・オブ・ザ・イヤーが発表されMILのドリュー・ホリデーが選ばれました(2年ぶり2度目)。
このアワード、正式名称を「Twyman-Stokes Teammate of the Year Award」と言います。
頭の部分Twyman-Stokesは白人のジャック・トワイマンと黒人のモーリス・ストークスという1950年代NBA黎明期シンシナティ・ロイヤルズ(現サクラメント・キングス)に所属していた名選手の名前からきています。

ジャック・トワイマン
モーリス・ストークス 引用元:ESPN.com

ボブ・クージーはモーリス・ストークスについて「エルジン・ベイラー、ドクターJ、偉大なフォワード達の先駆者だった」と述べ、オスカー・ロバートソンも「マジックもしくはレブロンタイプだったね」と述懐しています。

そんな二人についてのお話。

1958年3月、ストークスはレギュラーシーズン最後の試合で頭を強打しました。目立った異常もなく残りの時間をプレイし、3日後のプレイオフでも試合に出続けました。その試合中に気分が悪くなったストークスでしたが重大には捉えられず、試合後空港で嘔吐したにもかかわらず、そのまま飛行機に搭乗しました。

そして機内で「僕は死ぬかもしれない」と叫んだ後、ストークスは動かなくなります。

着陸後、すぐに病院に搬送され“頭部外傷による全身麻痺”と診断されました。

NBAの給与が1万5千ドル程度だった時代です。年間10万ドル以上の医療費を支払う余裕は、どこにもありませんでした。

そこで立ち上がったのが同郷のチームメイト、ジャック・トワイマンです。 トワイマンは医療費を捻出するためにNBA内外で奔走し続けました。

ウィルト・チェンバレン、オスカー・ロバートソンら選手たち、ホテルの経営者ミルトン・カッチャーらに掛け合い協力し合い、選手とストークスの友人としての多忙を極める二足の草鞋を履き続けました。

ある意味で残酷だったのは機内で叫んだ直後、全身麻痺になってからも、ストークスの意識はハッキリとし続けていたことです。

ですが、それはストークスの「強さの証明」でもありました。
周りの目に届かないところで、多くの苦悩があったことは想像に難くありません。それでもストークスは、まばたきと文字盤で意思の疎通をし、人前でよく笑いました。ストークスの笑顔の映像は多く残っています。

リハビリの一環として手首から先のわずかな振動でタイプライターを打つ訓練をしていた時、ストークスが一週間かけて綴った最初の文章は「僕は君にどう感謝すればいい?」というトワイマンへの感謝でした。

そしてストークス自身も多くの人に勇気を与え感謝をされる存在でした。リハビリの映像を公開し、病室には励ましの手紙と共に悩みを抱える人達から多くの感謝の手紙が届きました。

一見狭く見える病室の中で多くの人と支え合い、車椅子に座りながらコートに戻ってきさえしました。

良き友人であり支援者でもあったチェンバレンとトワイマン。画像引用元:wjactv.com

後年トワイマンは言います。

何か悪い事があった時、私は勝手に彼の病室へ行くんだ。“私に気合を入れてくれ”って頼むためにね。彼が失敗した事はない

2004年殿堂入り式典にて。ストークスに代わりスピーチを行うトワイマン。fansided.com

そして、1970年に心臓麻痺で亡くなるまでストークスが過ごした病室には、こんな言葉が掲げられていました。

人を必要とする人間、それは世界で一番幸運な人間だ

nytimes.com

今回はこの辺で。ではまた。

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